「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」から
「子部(こべ)の里」


初瀬の近くの泊瀬朝倉宮(はつせあさくらみや)に宮居されました雄略天皇は、養蚕の業を奨励するために、スガルという臣を呼んで、国内の蚕を集めて、奉るように命じられました。むかしは蚕のことをコといいましたので、「コを集めてくるように」といわれたのを、「子を集めてくるよう」にといわれたとまちがえてききました。
「さ、えらいことだ。全国の子供を集めてこいということだが、これは大へんだ」と思って、村々をまわっては、大声で、
「さあ、さあ、お天子さまのお召しじゃ。子供はみんな集まってこい」
といって周りました。
そうして集まってきた子供を、たくさん集めて宮中へ参りました。
お天子様は驚かれて、
「これは、これは、スルガの奴、蚕と子供とまちがえたと見えるわい。 よし、よし、その子供をみんなスルガにあげて養わせてあげよう」
とおしゃってスルガに少子部(しょうしべ)という姓を賜り、大和の子部の里でその子供を養わせたということです。



この子部の里は今の橿原市の飯高という小槻の辺りで 昔は多くの里の一部でした。子供を育ててからその辺りを子部の里といわれるようになりました。飯高には子部神社があり 毎年十月十五日に、ここでスルガ祭りが行われます。
奈良県はもちろんののこと、大阪 京都 神戸 和歌山などの幼稚園 保育園の先生方がお参りにきます。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

大和の雨乞の歴史
神社と祈雨
古代のところで述べた雨の神への信仰は中世になってもひき続いてその命脈を保っていた。もっとも「延喜式」の祈雨社の信仰のごときはそのままの形で残っているわけではないが円生川上社へは依然として奉弊の使いがたてられた。その一例をあげると鎌倉期では建暦元年(1211)六月二日 室町期では嘉吉三年(1443)五月九日の例がある。その他 数多いが黒馬を献ずることは少なくなり、文明四年(1472)六月四日には費用のないため奉弊の中止になった例もある。
次に神社での祈雨にどの様な儀式が行われたのであろうか 神仏習合の当時にあって僧徒の神前読経も珍しくなかったが 普通には奉弊 神楽等が行われた、また千度祓い 霊所七瀬の祓い 荒神祓い等神道的儀礼も請雨経法等の仏教儀礼と結びつき その一環として行われた。現今の雨乞にもお百度詣り お千度詣りをきくが室町期の奈良ではこれと似た一万度または三万度等の祈雨法があった。これは春日社と興福寺南円堂の間を一万度または三万農往復参拝することで奈良南北両郷の郷民が行なった。これは雨乞の願掛けをし、願のかなった時のお礼の行事として行われたようである。

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「子供のための大和伝説」から
「長谷寺の未来鐘」

桜井市初瀬町の山門をぬけて、長い回廊をのぼりつめたところで、頭の上をあおうぐと、大きな 鐘がかかっています。外から見ると、ここは鐘楼になっていて、尾上の鐘という鐘がぶらさがっているのです。この鐘を未来鐘ともいわれて有名なのですが、それにはこんな伝説が伝わっています。
むかし、奈良の北にあたる山城国(京都府)の木津の里に、ひとりの貧しい人がありました。名は野慈(やじ)とよび、家は貧しい信心深く、長谷寺の観音さんに月まいりをしていました。
ある時、宿坊の慈願(じがん)という坊さんに、この寺の鐘楼の小さいことを話して、
「わたしの願いが成就しますと、鐘を一つ奉納したいと思います。」
といいました。聞いていた人々は、
「なあんだ、未来のことか。今、奉納するのかと思うと、お前の願いが成就してからのことか」
といって笑いました。
それから、この男はみんなから、未来男とよばれていました。
ところが、その後、観音さまの御利益によって、この男は近江の国の国司代(くにしだい)という役にまで出世し、栗田助貞(くりたすけさだ)と改名し、鐘を奉納して供養を営ん」だということです。
それで、世の人は、この鐘を未来鐘よよび、未来男と笑われていた人に感心したということです。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」から
「天狗杉」

長谷寺の仁王門を入って、一の回廊をのぼりつめたところのも右側に、一本の杉が高くそびえています。この杉は天狗杉とよばれていますが、この杉にこんな話があります。
長谷寺第十四世の能化(のうげ  官長さんのこと)に英岳大僧正というえらいお坊さんがありました。伊賀の国の上野の生まれで、小僧さんの時から長谷寺へきて勉強し、修行しておられました。貧乏だったので苦学をされ、毎晩、回廊のつりどうろに灯をつけてまわり、残りの油をいただいて、自分の部屋のあんどんに灯をつけて灯をつけて勉強されました。
そのころ回廊の左右には大杉がじげっていて、そこにすんでいる天狗がいたずらをして、つりどうろの灯を消し、灯のさらをひっくりかえしますので、英岳の小僧」さんは大そうおこって、
「けしからぬ天狗だ。よし、わしがこれから、修行して、この長谷寺の能化となり、天狗のすむ杉を一本残らず、きりはらってやるぞ」
といって、発奮されました。・
それから五十年もたって、八十六の歳に、英岳さんはとうとう長谷寺で一番えらい能化になられました。
英岳大僧正は山内の寺々を再建するため、杉の大木をみんな、きられましたが、木こりが最後の一本をきろうとした時に、
「まあ、この杉だけはきるのを待ってもらいたい。わしは天狗のいたずらで、発奮して勉強したので、天狗はわしの恩人でもある。この一本だけは天狗のすみかとして、のこしてあげよう。」
といわれたということです。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

大和の雨乞の歴史
竜王に雨を乞ううには必ず請雨経法とは限らない。承和六年(836)六月の旱魃の際の雨乞法の一つには七大寺の僧を東大寺に請じて三日三夜「竜自在如来」の名号を称賛せしめた、とあるのはその一例である。平安朝以来も有名な室生の竜穴は中世にあってもその信仰は依然として盗んであった。