「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「川上村の昔話」から
「河太郎の話」
その 中の街道でんねや。あこで、中粉ていう家でな、むかし馬飼うとって、ほいて、下の川に洗いに行きましてんと。そしたら河太郎が尻抜きに来てんて、馬の。ほんでんな、
「どうぞ、もうきゅうりを作れへんさかいに、馬の尻抜くんだけこらえてくれ」て。ほんでいまだに抜けんがな、一ぺん作ったときに、そこで、五郎ちゃんが谷のところでむくれてな、あのかわいらしい、しっかりした男の子が、ほで、死んでんが。ほんで、いまだにつくられへんねんていう話聞いた。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

赤膚焼き

現在の赤膚焼き窯元 外部資料

野見宿禰に由来します。
垂仁天皇の時代 弟である倭彦命が亡くなり葬った時 その陵域に近習のひとびとが
生きたまま埋められていくのを あまりにも悲惨であった。それを目にした垂仁天皇は心を痛められました。そんな折り 皇后葉酢媛がお亡くなりになった。かねてから垂仁天皇のお心を察していた野見宿禰は 従来の殉死の風を改めて、土で埴輪を作って是に代わることを献策しました。天皇はこの案を喜納され野見宿禰は土部(はこべ)を呼び寄せ 人や馬などいろんな埴輪を造って天皇に献上しました。そして それを日葉酢媛陵墓に埋め その後殉死は禁止され 埴輪を用いることになりました。
そのことにより
 野見宿禰は垂仁天皇ニヨリ 土師職(はじつかさ)に任じられました。土師氏は現在の菅原町に居を構え 五条山で埴輪を制作しました。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「川上村の昔に話」から
「伯母峰の一本足」
あれは義経の馬でねえ。ほいで馬が戦争に足二本いためて、二本足になってもてね。ほいで、あこでほかしたていいますねんな。伯母峰でね。義経が吉野へ来たときにね、まあこっちへ来て、あこでほかしたいいますねんさ。
そのほかした馬がね、悪いことしてしゃないってね。畑荒らして。ほして、鉄砲もって鉄砲で撃ったら足一本ないようになってもてね、一本足になってしもたんです。
それからその馬がね
「今度はあの鉄砲さえなかったらね」ーーー北山の西原というところのちょっと手前に、そこにその堂たってますわい、小っさい堂がね、道端にね。今どうなったか知らんが、昔の県道のそばにたっとったんですわ。その堂に鉄砲祭ったるのですわーーーほたら、
「その鉄砲がないようになったらね、西原の町を野にしてしまう」ちゃてね。一本足が言うとってんけどね。その一本足は、銃があんのでね、ようしませんねて。そしてその銃が、果ての二十日にね、十二月二十日いうたら寒いときですわな、冬ですわな、その銃にはね、露が置くんやてね。一本足が果ての二十日に出て、前に銃で撃ったらしいですわい。今度はまた、果ての二十日に一本足が出たら悪いさかい、精入れて露が浮くんやちゅうてね、いう手露が浮く、露が浮くて言いましたわいお。それ、事実わしら見たことないけどね、そやけど銃は祭ってありましたわ。今でもどっかに、北山にその銃は置いたるはずですわ。昔の火縄銃でね。



同じ話 タイトルですが話が少々違い 時代も不思議に感じることもありますが、同様の内容や単語もあり 興味深くかんじます。

薬師寺近くのうのんから大和気象歳時記

「川上村の昔話」から
「伯母峰の一本足」
義経がな、ここをおう この山越えてな、はいで、熊野に行くときに、果ての二十日いうたら十二月の二十日やわな 昔の、そのとき通ったら、一本足がでたんやとう。



おなじ話やテーマがおなじでも語り部により少しづつ 話がちがいます。これも伝えていくべきことと記載され、残されています。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「川上村の昔話」から
「伯母峰の一本足」
まあ、いろんなことを言うてますけども、やっぱりあの伯母ヶ峰峰にもう毎日のように怪物が、まあ、出没して、そして、その、、通行する人を悩ましたと。それで、猟師がこの鉄砲でも、てうちに行ったけえども、弾がはねかえってきて、どうしても、その、弾があたらなんだと。それにあとになってわかったことであるけえども、なんか、まあ、年を経た。いろいろな説あるんですけども、そのまあ、猪のようなものであるとか、また、あの、猿の功を経たようなのであるとか、いろいろに話あまあ語る人によってわかれてますけれども、まあ、この、松やにを塗って、体じゅうへ、そして毛を固めてしておるので、それで、そのなにが、禅が当たらなんだと。
そしたら その、名僧知識の坊さんがおって、そして、はからずも、その、なにといき会うて、その怪物を、そして、まあ、問答をやったと。禅問答のようなことをやって、そして、その、怪物の方が、その負けたので、それで、その
「これからは、あの 師走の二十日ですな。十二月の二十日だけをお前の出てくるのを認めるさかえ、それ以外のときには、あの、絶対に旅人を悩ますようなことをするな」ということで、とうとう話が、まあ、双方にまとまって、そして、あの、したので、十二月の二十日の日だけは、もう、旅人も誰一人も伯母ヶ峰峰を超える者はなかったと。こういうふうに結んどる人もありますし、それからまた、猟師に撃たれて、そして、あの、足を一本怪我して、そして、あの、入之波の温泉あたりへ怪物は湯治に行ったと。それと、その怪物の名前は生笹(いくささ)と、生きる笹ですな、生笹という名前のもんであったと。
こういうふうに、あの、いうて、それから まあ、伯母ヶ峰の一本足というておるというような、あの、似たりよったりですが、いろんな言い伝えがあって、そして、あの、伯叔ヶ峰峰から北山の方へちょっとくだりましたとこに、あの、一軒家が、今もあるかどうかわかりませんけえども、西原という在所へ行きますまでの間に一軒家が,茶店がありまして、そこに、その、先祖の猟師が、あの、生笹を撃った鉄砲やっていうのが、いまだに、あの、保管しとるというようなことも、事実わたし、その鉄砲ていうのを見せてもらったことはないんですけえども、あの、土地の人、その付近の土地の人らの話を聞きますと、そういうようなこともずっと言い伝えられてましたけどね。