「うのん」の気象歳時記ブログ

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薬師寺近くから 大和の気象歳事記No.305 壬申の乱

宮滝遺跡②
天武天皇のよき人のよしとよく見てよしと言ひー 吉野よく見よよき人よく見つ の歌もこの宮滝で詠んだ歌という。国の史跡に指定されており出土品は近くの中荘小学校に展示されている。郷土資料辞典より 吉野の宮がなぜ宮滝なのか 日本書記応神天皇の条には吉野の宮滝に行幸したことが 雄略二年には「吉野の宮の幸す.」とあり 四年春にはかに有名な一言神社と会った後 「秋吉野に幸す。」とあって何等かの形で吉野の宮が存在したことが判る。更に斉明天武天皇二年には「吉野の宮を作り給ふ」とあってこのころ吉野の宮が確定されたものと思われる。さらに天智天皇十年十月大海人皇子は天智天皇の許しを得て吉野に入り給わった。以上述べてきた「吉野」が現在顕彰碑が建つ宮滝かどうかは分からない。宮滝が注目を集め出したのは江戸時代からだそうで 当然多くの先生方が解析を試みられ研究と調査が続くでしょう。ここでは昭和5年秋から約10年間故末永博士が発掘調査されたその時点では吉野宮滝が当該地であると断定できなかった。ところが最近の調査で天武・持統朝のものと思われる掘立柱列跡が検出され吉野宮跡としてより有力な資料が提出された。

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