「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「春日の森の昔ばなし」から「榊の枝と神主」


話はは戻りますが鹿島を出発したタケミカズチの命が、大和の安倍山へ向かう途中のことです。神さまは伊賀国の夏身(名張市夏身)を流れる一瀬川でしばらくお休みになりました。
その時、鹿島からお供をしてきた中臣(なかとみ)の時風(ときかぜ)と秀行(ひでゆき)という二人の兄弟神主に、おいしそうな焼栗を一つずつ下さいました。そして神さまは(その栗を植えて、もし芽が出たら、お前たちの子孫は末ながく栄えるだろう。」

二人はすぐさまその焼栗を植えました。焼いた栗が芽を出すなんて考えれないのですが、それが何と芽を出したのです。この芽出たい故事によって二人は"中臣殖栗連”(なかとみえくりのむらじ)という称号を頂きました。
さて、四柱の神さまが御殿にお鎮まりになって、ほっとした二人の兄弟神主は「ところで私たちはどこに住めばよいのでしょうか」と神さまにお伺いを立てました。すると神さまは、「今この榊の枝を投げるから、その落ちた所に住めばよい」と申されました。

大空を飛んだ榊の枝が落ちた所というのは、今でいえば、春日大社から西南に約5キロメートルの地点 国鉄(JR)奈良駅と大和郡山駅との中程にあたる奈良市杏町(からももちょう)で、現在そこには「辰市神社」という小さなお社があります。
以降、「二人の子孫はずっとそこに住んでいたのですが、バスや電車のなかった時代、遠すぎて何かにつけて不便だったので、やがて春日のお社に近い奈良の高畑に引越してきました。今も僅かに残る高畑の旧志賀直哉邸附近の古い土塀は、その昔、春日の神主たちが住んでいた社家町の名残です。
春日の社家の家では、毎年正月元旦のお雑煮を祝う前に、ご先祖をお祭る神棚に向かって、「榊の枝はいずくに候」、「さればその御ことめでとう候」という問答を交わすしきたりが今でも残っています。これは、神さまの投げた榊の枝が落ちた所に住みついた、という家の始まりを祝うおめでたい言葉なのです。

×

非ログインユーザーとして返信する